こんにちは、答志島のいがちゃんこと五十嵐ちひろです。今回書くのは、移住した1年目くらいからいつか書きたいな、と思っていた題材なんです。それは島の人たちの信仰心について。
島の人たちってみんなとても信心深いんです。それはもう迷信深いと言ってもいいくらい。
無い家が無いまるはち
例えば答志島を語る上では欠かせない答志と和具の家に描かれた「まるはち」。みんな毎年かかさず祭りのときに描き直しますし、新しいモダンな家にもあります。家の壁を汚したくないから止めておく、ということは無いし、喪中や女性しかいない家で(まるはちを描く墨を奪い合う)祭りに参加できなくても、親戚が代わりに描いてくれたり、墨を分けてもらったりして必ずどの家にもまるはちがあるんです。
しめ縄にもお作法がある
同じく玄関先にあるしめ縄は、答志島に限らず伊勢志摩地域全体で1年中飾られていますが、家の人が亡くなったときには喪に服している期間は外しておく習慣があります。玄関の外に飾っていたものを葬式以降は新しいものに換える年末まで玄関の中に入れるという家もあります。
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厄年の色々
今年わたしは厄年だったんですけど、厄年の人はみんな潮音寺(桃取は桃源寺)に厄除けに行きます。年齢と性別によって時間が区切られているので、わたしたち33の厄の女性は夜明け前にお寺に行ったんですよ。寒かったな・・・。
そして、男の42の厄では家族揃って厄落としの旅行に行くのが習わし。最近ではハワイが人気です。今年が厄年だった人たちはコロナ禍直前に滑り込みで海外旅行に行けていましたね。ちなみにこの厄旅行のお土産は、厄年の人には渡してはいけないことになっています。お土産も厄でそれを周囲の人に配ることによって厄落としをしているから既に厄を抱えている厄年の人はもらえないということなんでしょうね。
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半年分の悪を祓う大祓い
また神社では6月30日と12月31日の年に2回大祓いがあります。半年の間に身体に溜まった悪い物を祓う行事です。紙の人形に自分の名前と年齢を書いて息を吹きかけ、人形に悪い物を全て移し、その人形をお祓いするという行事です。
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普段の生活にも
こうやってあげていくと行事関係が多いですね。これ以外にもお盆のあれこれとか、節分とか、祷屋祭とかまだまだたくさん出てきます。しかし行事関係でなくても、普段の生活でも習わしやタブーがあります。
例えば漁師さんが漁に行くとき。船上でお弁当を食べたり缶コーヒーを飲んだりするときには最初のひと口は海に落とします。これは、海の神様・龍神さんへのお供えなんです。現代的な感覚では「それって海洋汚染では?」と思ってしまうけれど、環境問題なんて言葉が生まれる前からの習慣なのです。自分より先に龍神さんに食べてもらって、安全に漁ができるようにお願いをします。
女の人たちは、毎朝お墓の掃除をします。ぶっちゃけ周りの人もみんなやっているから、自分の所だけ汚いと恥ずかしいとか、周りに木の葉が散って文句言われるから、とかもあるとは思いますが、それでも「ご先祖様を大事に」という気持ちがあることが前提にだからできることだと思うんですよね。実際に盆行事のときに「ご先祖様がいたから自分たちが生きてられるんだから、ご先祖様を大事にしない人は馬鹿だと思うよ」というおばあさんの言葉も聞いたことがあるし。
こういうことが本当に多くあって、未だにわたしが知らないこともたくさんあると思います。例えば十五夜のお供え物のお団子は、神棚の分は若い人は食べてはいけないけど、仏壇の方はOK(逆だっけ?)だし、老人ならどちらも食べていい、なんて風習は今年初めて聞いたけど、島の人にとっては当たり前らしいです。
なんでそんなに信心深いの考えた
これらの昔から続く方法で行う宗教的な習わしをきっちりと守る信仰心は、突き詰めていくと単に神様や仏様を信じる心とは少し違っていて面白いんです。こういった風習はやる側にとっては正直面倒なことが多いです。道具や材料の準備から手順から、細かく決められているほどに面倒ですが、なぜその面倒なことを面倒なままにやるかというと、これをやらなかったり、簡素化した後に不幸なことが起こると「あの時ちゃんとやらなかったからだ」と人に言われたり、自分で感じたりするからなんですって。そう思わなくて済むようにちゃんとやる。ちゃんとやってたのに起こってしまった不幸なことは起こるべくして起こったものとして受け入れられる、ということでしょう。
こういう話を都会の友だちに話したら「なんかそこまで妄信的なのってこわい」と言われたんですが、わたしはどちらの気持ちもよく分かるんですよね。初詣すら行く習慣の無い家で育ったので、そもそも神様や仏様の存在が人の都合で作られたものだと考えているし、習わしや風習は事故や病気から身体を守るための工夫だと解釈しています。だけどそれは頭で考えていることで、実際に答志島に住んでいると、毎年大般若のお札は張り替えたくなるし、お坊さんの読経をありがたく感じるし、宗教行事も決められたとおりにきちっとやった方がなんだか気分が良いんですよ。
信仰心とかしきたりとか習わしとかって、現代人にとってはどうしても煩わしいものに感じてしまうけれど、特に生まれたときからそういう文化圏で育った人にとっては身心を健康に保つために実は合理的だったりするのだと思います。
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