こんにちは、答志島のいがちゃんこと五十嵐ちひろです。今回は、島の家族システムについてお話しようと思います。
田舎では本家、分家、という話をよく聞くのかと思いますが、答志島の場合は分家という言葉はあまり聞きません。伝統的に分家をあまりしないからです。なぜでしょうか。
答志島の面積は約6.98㎦でその8割が森林で覆われています。つまり、住宅地の面積はわずか1.4㎦ほどということになります。限られた面積の中で繁栄するためには、財産や家業を長男に一極集中させる必要があったのでしょう。
では、きょうだいの数が多かった時代に分家することができなかった次男以降の息子たちはどうしていたかと言うと、その多くが大阪や名古屋などの新天地で新たに家庭を持つこととなりました。娘たちは町内に嫁ぐことが普通でしたので、昔は男の子より女の子の方が島に残るのは容易であったのではないかと思います。その他には、次男や三男でも、男子に恵まれなかった家に婿に行く、跡取りのいない家に養子に出されるなどの事情で。長男で無くとも島に残る人はいたそうです。
寝屋子制度が長男に限られたものだということも、ここから来ています。一生助け合う仲間は同じ島内に居る者同士でつくるのが道理ですから、いずれ島を出る次男以降の男子には適応されなかったのです。
しかし、島に残るという選択肢を与えられなかった息子たちも、島に残り漁師をする者たちと同じように、郷土愛があったはずです。それを示すものが美多羅志神社にあります。
この美多羅志橋は大阪府内に住む4人の兄弟によって奉納されています。この人たちはみな、答志島の出身の人たちです。「故郷を離れ、大阪で人生を送っていても答志島を想っています」という気持ちを込めて奉納されたのでしょう。
現在では、兄弟で操業している漁師がいたり、長男ではなく次男が家業を継ぐことがあったり、と以前とは様子も変わり、寝屋子も島にのこるかどうかにかかわらず組を作っています。しかし、島から出て行った人が、島を想う気持ちは変わらないようで、先月行われたお木曳では、島外にいる島出身者からも多くの寄付金が集められました。
いざとなったらいつでも故郷の為になることをしたい、そう思いながら島を出ていく人たちは、今も昔も変わらず答志島に欠かせない存在です。
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