こんにちは、答志島の五十嵐ちひろです。わたしの名前は画家のいわさきちひろさんからとってつけられています。色んな絵本の挿絵を描いているので、名前は知らなくてもその作品はどこかで目にしているのではないでしょうか。
さて、では答志島の名前の由来ってなんなんでしょう?実はそれには諸説あり、これだ!と確実に言える資料は残っていません。答志島が答志島と呼ばれるようになった理由、4つある説を紹介します。
手節説
鳥羽本土の方から見たときに、形が手を伏せた節のように見えることから「手節(てふし)」それがなまって「とうし」になったという説で、これが最も有力な説でしょう。飛鳥時代の歌人、柿本人麻呂が読んだ「釧つく 手節の先に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ(美しい腕輪をつけて 手節の崎で 今日もまた宮廷の方々は 玉藻を拾ったりなどして水遊びをしているのだろうなあ)」という歌があります。この手節の先というのが、まさに答志島のことを読んだ歌であるとされているのです。答志の八幡神社前にある歌碑にはこの手節を答志と書いてあります。文字は後から音に合うように良い漢字をあてたようです。
遠伏説
答志島と相対する鳥羽や二見方面から見た答志島が、遠くの方に伏せたように見える岬だから、「遠伏崎(とおふせざき・とおふせみさき)」と呼び、それが「とうせざき」になったという説。地元の人は答志のことを「とうせ」と発音することも多いので、これもなかなかに信ぴょう性があります。
冬至説
伊勢神宮との位置関係に由来します。ちょうど冬至の頃に、伊勢神宮から見て答志島のある方角から朝日が昇るため、重要視され「冬至の島」から「とうし」と呼ばれるようになったという説。この説はある学者が唱えた説で、島の中で伝承されているわけではありませんが、筋は通っているしロマンがあるので、わたしは好きです。
刀子説
大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子を倒し皇位を手にした壬申の乱(672年)の際に、安曇刀(あずみのかたな)という人が大海人皇子に味方していた。安曇刀は当時尾張の海上で生活していた海人族の族長であったのだが、大海人皇子の守役でもあった。このことから古来より「刀の子孫の島」という意味で「刀子島」と呼ばれるようになったという説。
上記の通り、どの説が正しいのかは謎のままですが、どれも一理あって面白いですよね。わたしの場合は使い分けています。ガイド中に伊勢神宮の話になったら冬至説を話して、答志をうっかり「とうせ」と発音してしまったら遠伏説を伝える、など。だから意外と定まっていないことが悪いってわけでも無いんですよ。
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中川 治子 (火曜日, 10 4月 2018 22:48)
読ませてもらいました。4説 どれもなるほど。柿本人麿の この歌は いかにも宮廷歌人の歌ですね。
いがちゃん (水曜日, 11 4月 2018 09:03)
中川治子さん
柿本人麻呂の歌は色んな意味が込められていて面白いですね。
4つの説どれも説得力があり、面白いです。
Hiroba (金曜日, 13 4月 2018 21:51)
初めまして。昨日初めてブログ読ませていただきました。
私は3/10の御神木運搬の日にいがちゃんと同じ船に乗っていました。公式ビデオ撮影隊の一人に主人がいるので、おまけとして連れて行ってもらえました。当日はもちろん‼お木曳当日までにまた下見に行くようです。
よろしくお願いいたします
いがちゃん (火曜日, 17 4月 2018 08:29)
Hirobaさん
コメントありがとうございます!
撮影でいらっしゃっていたんですね。いまは毎晩お木曳の際の音頭取りの練習が行われています。
また当日もよろしくお願いしますね!!